意味という宗教から抜け出そう!
美術館に行きました。
期間限定の展示はサヴィニャック展でしたが、今回はそちらではなく無料で入れた「類は友を呼ぶ」展の話。
(サヴィニャック展の感想は下のリンクからどうぞ!)
この展示に行って気づいたことがあります。それは、
「意味のあるものしかこの世には存在しない」
「需要の無いものなんてこの世にない」
っていう思い込みを、無意識にしてることです。
「類は友を呼ぶ」展には、風景画、人物画、オブジェ、色んな作品がありました。
油絵、水彩画、銅版画、オブジェの大きさや素材も様々。作られた時代や国も縛られず、とにかく種類が多かったです。
その中で惹きつけられたのは、意味が全く分からないものでした。
二枚の布を重ねたもの
壁からボロボロの立方体が飛び出てるもの
砂みたいなサビみたいな謎の模様の絵
など、意味が全く分かりません。
こんな感じの絵とか
謎に3段くらい作られた階段とかがありました。
そんな作品に、奇妙な違和感を覚えました。
違和感の正体は、作者を想像した時に分かりました。
絶対需要が無いものを、作った人がいる
その事実に強い違和感を覚えたのです。
なぜ違和感を感じるか?と自分を深掘りしたところ、「需要の無いものなんてない」「それを生み出そうとする人なんているわけない」という思い込みに気付きました。
今風にいうなら、何かものを作るけど、SNSの『イイネ』とかコメントとかを全く狙ってない、むしろSNSにアップしたり他人に特に見せずに、自分すらも作った後で放置するような作品を生み出す、そんな人がいることに驚きました。
(実際は自分で楽しんでたりしたのかもしれないけどね。あくまで想像です。)
風景画とか、綺麗な模様の絵とか、銅像とかの存在意義はまだ理解できます。
見る人はおそらく「綺麗だなぁ」とか「細かいところまで再現されているなぁ」とか、そういう風に思わせることを狙って作られてそうな感じがします。
しかし、意味のわからない作品たちは、受け取る側を全く意識せず、自分の感性の赴くままに作られた感じがします。
受け取る側だけじゃなくて、作った後に自分が何か得をするか?とかも意識してないと思うのです。
これが、私には無い発想でした。
いつも、自分の成長や、他人に与える影響とか、何かしらの意味を無意識のうちに意識しながら行動していたと気付きました。
特に会社に行くようになってからが顕著だと思います。
会社や学校で行われることは、基本的に全てに意味が伴います。売上を上げるとか、良い商品を作るとか。成績アップして、いい大学に受かるとか。
そういう組織に長く身を置いたことで、
何の意味もない、需要もない、影響もないモノの存在すらも忘れていたようです。
タイトルの「意味という宗教」という言葉は、
無意味とか無駄なモノには価値がないっていう教えを神として崇めている様子から思いつきました。
私も完全気その宗教の信者で、無意味や無駄をわざわざ生み出す人なんて、この世に存在すらしないと思い込んでいました。
危ない!危ないですね〜
会社みたいなところに長く身を置くと、自由な発想とそれを行動に移す気を削がれます。
心の赴くままに何かを創り出すことから得られる幸福感から遠ざかっている。
会社では意味のあることをする。
けど、人生の中では、需要も意味もないことをしたって何の問題もない。
そう気付かされた、美術館でした。
以上、やつはしでした。
バイバイ!
サヴィニャック展感想→
サヴィニャック展に行ったらサヴィニャックさんを尊敬した - やつはしブログ